住職法話 其の二

住職法話 其の二

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不安を持つ今だからこそ(2020 3)

 
今、世界中で新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない状況です。新型でありますので、まだ専門家にもわからない点が多くあるようです。高齢者、持病のある方は特に注意が必要です。
イベントや式典は軒並みに中止・延期となり、小中高校は春休みまで休校となりました。お寺も例外ではありません。
春期彼岸会法要・楽しみにしておりました落語会もご本山にならい中止することになりました。無参拝ですが、いつも通りお勤めはさせていただきました。ご安心ください。
さて、情報が飛び交う現在、インターネット上のデマ情報に端を発し、トイレットペーパーの品切れがおきました。
ネット社会となり、誰でも情報を簡単に入手することができる便利な時代になりましたが、しかし、一方で根拠のない情報や憶測、悪意のある偽情報などが散乱し、それが、実社会を揺るがすようになりました。
感染をめぐる風評被害も起こり始めております。こうした曖昧な情報につい飛びついてしまう原因の一つは、誰もが持つ「不安」の心である。
「不安」を持つ今だからこそ、仏様のみ教えを聴聞し、世間に惑わされない真実の道を歩みたいものです。

お彼岸

 
春・秋の彼岸中日は、昼夜の時間がほぼ同じで、太陽が真東から上がり、真西に沈みます。
彼岸と言う言葉は、梵語の波羅蜜多(ハーラーミタ)に由来します。
私たちが生きているこの世を此岸(しがん)といいます。この対が彼岸で仏様の荘厳な世界、極楽浄土を指しています。
仏様を聴聞する人は、古来からこの時期に苦しみの多いこの世から解放されて、絶対自由の悟りの境地の彼岸に往生することを願い、この時期は特に日本人は、故人をしのび お墓参りをする習慣があります。
仏教は仏の教えと書きます。仏(仏陀)は覚者、真実に目覚めた存在で、私たちはその教えを信じて、極楽浄土に往き生まれ仏に成らせてもらうのです。

共命之鳥(2017 1.1)

 
阿弥陀経の中に「共命之鳥」の一節がございます。
共命之鳥は六鳥の中では唯一この世に診られない鳥といえますが、最も象徴的に仏の心を体現しています。
その身体は、1つの胴体に2つの頭を持つ双頭の鳥で、2つの頭がそれぞれ別々の心を持っております。
その鳥の名は、カルダとウパカルダと言う名の2つの頭の共命之鳥がいました。ウパカルダは、自分が眠っている間にカルダがおいしい木の実を腹いっぱい食べるため、起きた時には満腹で何もごちそうが食べられません。お腹は1つだから。
いつもこれを不満に思っていたウパカルダは、あるとき毒の実を見つけました。これを自分で食べれば、同じ身体を持つカルダは死んでしまうだろうと考えたウパカルダは、カルダが眠っている間に毒の実を食べました。
案の定、カルダは悶絶して死んでしまいます。しかし、当然のことながら、身体は1つなのでウパカルダもやはり死んでしまったということです。
この鳥は今はお浄土に生まれ変わって「考え方や生き方が違っても、その命はつながっているんだよ」と私たちに呼びかけてくださっております。

既にそのときに(2016 8.1)

 
「既にそのときに]   仏事の小箱より
 
蓮といえば、仏様のシンボルとなっているくらい、尊重されているお花です。
蓮が尊ばれる理由はいくつかありますが、花と果実が同時にできることもその一つです。
普通なら花が咲いて、それが散った後に果実を結びますが、蓮は花の中に、最初から果実を宿しています。 正光寺の庭にも大輪の白い蓮の花が咲いております。確かに花の中に果実が見えます。
浄土真宗は、「同時」の教えです。必ず救うという、阿弥陀様のみ心が私に届いたその時に、私が仏様にならせていただくことが、約束されるのですし、この生命終わった、その瞬間に御浄土に生まれるのです。
そして、御浄土に往生すると同時に光り輝く仏様となります。時間をかけて、やがてその内に成仏するのではありません。御浄土に往生すれば、既に智慧も慈悲も円満した仏様なのです。
お盆と言えば、毎日三度、御膳をお供えし、迎え火や送り火を焚く宗派が多いですが、それはご先祖をあたかも生きている人間に対するのと同じように、おもてなしされているのではないでしょうか。
一方お盆だというのに、浄土真宗ではそういうことをしませんが、それは、先立っていった人たちは、みんな御浄土にうまれ、その瞬間に最高の仏様となられているからです。仏様なのですから、人間に対するようなおもてなしはいりません。仏様に対する最上のおもてなしは、仏法聴聞です。蓮の花のように、御浄土に生まれ、仏となる。そのことを聞かせていただくことが、浄土真宗のお盆です。

春を信じて 冬を生きている(2016 2.1)

 
「春を信じて 冬を生きている]
ひたすらなる「信」
すべての葉をおとしてしまって
冬を生きている  雪柳  やまぶき  もくれん  沙羅双樹  榎  あじさい  -----
でも よくみると  みんな  既に  芽を用意している  蕾まで用意している
固く  固く  その芽を  守り  固く  固く  その蕾を 守りながら
まだまだまだ  なかなかなか  やってこない「春」を信じて  冬を 生きている
おがみたくなるような 植物たちの  「信」 の姿
 
東井 義雄

戦後70年によせる平和への願い ご門主お言葉【抜粋】(2015 8.4)

 
ーーーあらゆる争いの根本には、自己を正当とし、反対するものを不当とする人間の自己中心的な在り方が根深くあります。
宗祖親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなし」と人間世界の愚かさを鋭く指摘されております。
私たちが互いに正義を振りかざし、主張しようとも、それはいずれも煩悩に基づいた思いであり、阿弥陀如来の真実の働きの前では打ち崩されてゆくよりほかはないということでありましょう。それはまた、縁によって、どのような非道な行いもしかねないという、私たち人間の愚かさに対する警告でもあります。
いかなる争いにおいても悲しみの涙を伴うことを、私たちは決して忘れてはなりません。
受けがたい人の身を受け、同じ世界に生まれ、同じ時間を生きている私たちが、お互いを認めることができず、どうしてこの上、傷つけあわねばならないのでしょうか。一つ一つの命に等しくかけられている如来の願いがあることに気づかされるとき、その願いのもとに、互いが互いを大切にし、敬い合える社会が生まれてくるのではないでしょうか。
少なくてもお念仏をいただく私たちは、地上世界のあらゆる人々が安穏のうちに生きることができる社会の実現のために、最大限の努力を惜しんではなりません。
戦後70年という歳月を、戦争の悲しみや痛みを忘れるためのものにしてはなりません。そして戦後70年と言うこの年が、異なる価値観を互いに認め合い、共存できる社会の実現の為にあることを、世界中の人々が再認識する機会となるよう、願ってやみません。
 
浄土真宗本願寺派門主 大谷 光淳